01 12月 メラニー・パヴィ&イドゥリッサ・ギロ Mélanie Pavy & Idrissa Guiro
メラニー・パヴィは歴史と民族学の2つの修士号の持主。アニエス・ヴァルダ監督の助手を数ヶ月に渡って務めたあと、映画の道に進むことになりました。編集を学んだあと、編集主任となり、ブラジルやポルトガルでのレジデンスの機会などに、人類学と映画に跨るプロジェクトを進めてきました。
イドゥリッサ・ギロはパリのグラフィティ・シーンで活躍したあと、マグナム・フォトの事務所のアーカイブで働き、これをきっかけに写真とドキュメンタリーの仕事に携わることになりました。何年もの間、まずはフリーの写真家とし、次に撮影技師として、アフリカ、アジアや南米を旅したあと、ドキュメンタリー映画の道に進みました。
メラニー・パヴィとイドゥリッサ・ギロは2012年1月から7月にかけてレジデントとしてヴィラ九条山に滞在。レジデント期間中には、ドキュメンタリー映画『灰』に関する仕事のかなりの部分を進めました。この映画は世代の異なった2人の女性の遍歴を、明子の旅、彼女の母親が残した日記、1960年代のフランス映画の抜粋を通して描き出しています。
映像は日本でのレジデンス前に撮影されていたものの、ヴィラ九条山での滞在により、映画の語り口を構築し、映画を構成する様々な素材(ドキュメンタリー映像、資料映像、映画の抜粋、日記の朗読など)の間のバランスを見いだすことができました。
数々の映画祭 (2012年度ベルフォール国際映画祭「アントルヴュ」 、2014年度広島国際映画祭、2014年度ナミュール国際映画祭など)で好評を博したあと、この映画はフランスでは2015年6月10日に劇場公開の運びとなりました。
灰
この映画を作ることなったいきさつはかなり特殊なものです。と言うのも、小坂明子の喪の悲しみと密接に結びついたものだったからです。私たちは、日本に旅立つ2週間前には(ヴィラ九条山に滞在する1年前のことですが)、この映画を作ることになるとは思ってもいませんでした。
すべてはパリのサン・マルタン運河の畔で始まりました。そこで私たちは長年音信不通だった明子と再会しました。彼女は母親を亡くしてから自分がどんな状態にあるかについて、また頭から離れない根深い問題について語ってくれました。彼女は、最近になって、母親がヌーヴェルヴァーグの映画に出演していたことやその波乱万丈の人生について知り、1冊の日記帳を発見したところでした(その後、映画の撮影中に母親の家の地下室でさらに9冊の日記帳を見つけることになります)。情報は豊富でしたが、謎やはっきりしない部分も多々ありました。
この話はすぐに私たちの胸を打ちました。それは、私たちが二重の文化、死、記憶、継承などについてそれぞれ心の奥で抱いていた問題と響き合うものだったからです。
あっという間に映画のアイデアが生まれ、それを提案するため、私たちは明子ともう一度会いました。彼女の父親は映像作家で、母親は女優であったため、自分の人生の節目を映画にするという考えは、彼女にとって直ちに意味をなすものでした。明子は母親の遺灰を日本に持ち帰る際に私たちが同行することを承諾し、日本の家族を説得して、私たちに葬儀を撮影させることを認めさせました。
2週間後、私たちは彼女と一緒に広島へ向かう飛行機に乗っていました。当時、私たちは何を見い出すことになるのかについて、かなり漠然とした考えしか持っていませんでした。でも、既に知っていたことに照らして見て、広島での家族の再会時には、何か特別なことが起こるだろうという深い確信を抱いていました。 それは見逃してはならない瞬間でした。撮影を完成させるため、後日、改めて日本に来なければならないはずではあったのですが。
この撮影中、私たちは翻訳者なしで仕事をすることを選びました。毎晩、ラッシュをつないで、大雑把に編集し、撮影した状況の会話部分の大筋だけを翻訳してもらいました。そのため、撮影中は、空間における身のこなし方、態度、眼差しに精神を集中することを余儀なくされ、何よりも、被写体である人たちの間に感じられた緊張感や関係性を捉えようと努めました。こうしたきわめて直感的な映画の撮り方は、不都合な面もある一方、私たちに大きな自由を与えてくれるとともに、私たちがいることをほとんど気に留めなかった家族に、気兼ねなく話してもらうことを可能にしました。私たちが日本人だったとしたら、私たちのカメラは彼らにとってずっと邪魔で煩わしいものになっていたでしょう。
映画の大部分はたった1日だけの葬儀を巡って構成されていますが、私たちは彼女がフランスに戻るまで、5週間に渡って日本で明子と行動を共にしました。次に、私たちにとっては、ラッシュ全体を把握し、詳しく翻訳してもらい、映画のストーリーを本格的に築き上げるために、数ヶ月間、腰を据えることが是非とも必要でした。
映画を撮り終えるために日本にもう一度行くという考えを抱きながら、台本を書き始め、幸運なことに、この執筆作業が終わった時に、このプロジェクトはヴィラ九条山で発展させるために選ばれました。これにより、京都で7ヶ月のレジデント生活を送る機会が与えられました。
しかし、日本に来てからは、ラッシュを翻訳し、映画の構成を本格的に練り上げ始めるにつれ、追加のシーンを撮影しないことを最終的に選ぶことになりました。私たちが利用したのは当初撮影した映像と、そうこうするうちに、明子と私たちのリサーチのおかげで、米国とスイスの映像アーカイブで見つけ出したフィルムだけでした。全部で、私たちのラッシュに加えて、ヌーヴエルヴァーグの映画が3本、フランソワ・トリュフォーと小坂恭子の間で交わされた手紙と彼女の2千ページ近い日記が手元にありました。
ヴィラでの滞在中、私たちは日記帳をすべて翻訳してもらい、その上で、長い時間をかけて、選別作業を行いました。私たちは恭子の人生の節目となるいくつかの時期に的を絞り、中でも明子の人生と響き合う時期を重視しました。二人の関係にはすれ違いや誤解が多々あるように見えますが、小坂恭子の人生を発見するにつれて、その娘・明子を追いかけた軌跡との驚くべき鏡像関係が明らかになってきました。
次に、私たちは映画のナレーションを構築することに力を注ぎました。日記からの抜粋を集め、整理することに着手し、それをラッシュや資料映像から抜き出した齣のほか、様々な色の何十枚ものポスト・イットに記された各種のメモと組み合わせました。少しずつ、驚くべき系統樹がヴィラの私たちのワンルームの壁全体に広がっていきました。
私たちはまた、編集機材を部屋に設置し、撮影した映像を大きなスクリーンに映し出しました。数日のうちに、ワンルームはインスタレーションと編集室とダイニングが入り混じった状態に変貌しました。
仕事を進めるほどに、私たちは構築中の物語の中に過去と現在が、現実と虚構が、恭子と明子が、生と死が絶えず隣り合わせになっているのを感じるようになりました。そこで、見いださなければならなかったのは、手元にある様々な素材を共存させ、映画のなかに均衡関係をもたらすにはどうするかと言うことでした。登場人物のひとりはもはやこの世にいないのですが、彼女はイメージと文章を残しました(ひとつの顔とひとつの声)。しかしながら、ドキュメンタリー映画において一般的に資料映像が備えている性格とは逆に、私たちが持っている恭子の痕跡はフィクションに、即ち映画とオートフィクションである日記に由来するものでした。その上に、日記は60年近くの年月を経ているのに、私たちが選び出した映像では、恭子は永遠に30歳のままでした。そして、まさにこの時間の交差とフィクションの利用を強調することで、恭子の存在の幻想的な側面とその神話的で理想化された性格を際立たせようと試みました。
この映画は既に完成し、最近、日本での初上映が広島で行われました。日本の観客からはとても良い反応を得ることができ、これには特に感激しました。と言うのも、自分のものではない社会で映画を作ることはきわめて微妙であり、短絡的な発想が、特に日本においては、すぐにも生じてしまうからです。もし、この映画の中に当を得たところがあるとすれば、それは何よりも登場人物たちが私たちに寄せてくれた信頼のおかげであると同時に、大きな部分で、ヴィラ九条山での滞在とも結びついています。この滞在は、実験を行うために必要な時間に加えて、日本文化にどっぷりと浸かる機会を与えてくれました。そして、日常生活の時間が、おそらく、純然たる仕事の時間と同じくらい重要なものでした。また、この滞在は私たちの仕事に対する取り組み方を少しかき乱しました。と言うのも、こうした仕事の進め方は私たちのやり方にとって理想的であることに気づいたからで、新しいプロジェクトに関しては、映画を撮影する国で数ヶ月暮らすことも決めました。それは、ヴィラ九条山が私たちに与えてくれた条件を再現するためにほかなりません。