1959年わたしは京都市立美術大学の日本画科に入学、前衛芸術が胎動していた当時の美大では僕 の居心地は悪く、今ひとつ自分の求めるものが見えないまま、世情は60年代の安保闘争に混乱す るもこれにも乗りきれず、夜は関西日仏学館に通い、フランス語の勉強を始めた。きっかけは59年秋に見た ルーブルを中心とするフランス美術展だったと思うが、1963年フランス政府給費 留学生試験に幸運にも合格(こんな形でしか留学なぞは夢の又夢の時代だった)。卒業後、63年8月ル・ カンボージュ号にて渡仏。
パリ国立高等装飾美術学校に第二学年に入学、スタジエールではなく、普通学生として全教科を 履修したほうが、面白そうだとの先輩の助言に従い、建築を中心にインテリアや家具などのデザ インに二、三年生を過ごし、四年生で専門にグラッフィック・デザインを専攻しました。基礎の 科目が充実していたことがまず素晴らしかった。木炭デッザンにはじまりルーブル美術館での模写、粘 土による人体制作など午前中は月曜日から土曜日までこれらに徹し、毎月の提出が滞ると次の学年に進級できない仕組 みは厳しかったが、刺激的でした。マルタン、オリコス両教授の人体塑造(じんたいそぞう)の 授業は難しかったけれど、後年に友禅着物の造形を考える上では、とても役立つのだが当時は思 いもよらなかった。ジャン・ヴィドメール先生のグラッフィックはバウハウス直系のもの、アド リアン・フルチガー先生のタイポグラフェィは当時の最先端(IBM)に有ったもので、今もって造形の 基礎となるところを教わったと思う。
66年7月卒業、内定していたフランスでの就職の保証人になって貰おうとバルチュス(ローマの ヴィラ・メデチー・アカデミア・ディ・フランチアの館長でした)に電話、直ぐにローマにくる ようにと招かれるままに滞在すること六ヶ月、もちろん就職はせず、「帰れる国のある人は、帰 って自国の文化の中で自己を見出すべきだ」とのバルチュスの示唆、父華弘の友禅作品が大好き だった彼は、あとを継ぐべきだと諭してくれました。66年12月末に帰国、67年正月から修練が始まった。
父の工房での研修は 伝統的な「技」、きものという「形式」の学習から入るのだが、「技」「形式」といってもそれは多岐にわたるもので、手をつけ始めた時の`残感は忘れられない。もちろん思い通りに手が動くはずはないのだが、いきなり作品制作をはじめた。(師匠の息子だから許された、昔の弟子入りの年齢からすれば十年近くおそいスタートなので)。動く手ができることに合わせたデザインを考える、つまり「技」の稚拙さを補う意匠(デッサン)を考え
ることになる。先人の作った優品をまねる「技」もなかったが、又その「気」もなかったので、今迄見たこともないような友禅模様が出来てくる。
女性がここぞと言う機会に自分を美しく装いたいと思って着られる友禅の着物(晴れ着)は、そ れが生まれた江戸時代には、あたかも時代を先取りするかのように、あるいは時代の証言者であ るかのように、[貞享、元禄、正徳、、、文化文政]と時代の名前のはいた友禅模様が作り出され 、出版文化の隆盛と供に史料も沢山残されている 。残された名作からは、それから教えられることは限りなくあっても模倣す るものではない、それらを作った工人なし得なかったところを、われわれは求めなければならな い。
友禅のこの「技」にしてこの「意匠」と言える現代のお手本は、一番近くにいる父だった。実 に大胆で洒脱な表現な試みを目の前で積み重ねていて、しかも駆使する「技」は格段の高みにあ ったので、私としてはそれを真似ることなぞ考えも及ばず、父も未だに手をつけていない、そし て私にしかできない世界が有るのではないか、たいへん高慢に聞こえると困るのだが、そのよう に有りたいと願っていたし、それこそが、「伝統の継承」なんだと考えていた。そしてつたない 「技」で作った第1作「光」が第14回日本伝統工芸展に入選したのだった。
日本伝統工芸展で 私は染色家としてデビューし、そこで多くを学び励ましを受け自分自身の 世界を投影できる場としました。日本伝統工芸展は今も、毎年秋から次の春にかけて全国11カ所 で開催される公募展で、1950年文化財保護法に則る厳しい鑑審査に合格してものだけが展示される。
自分にしか出来ないこと(正確にはこれしかできない)をしても何とか伝統の中で役に立てるの かも、自分を活かせるはないかと思ってしまった。さらにそのコンクールへの参加は続き、早々と受賞する に至ってその思いは益々強くなる。
友禅の着物は、古くから生活空間に飾り、着る本人も家族もみんなが堪能し、着る人の幸せを 願う場を作って来た。だから平面の絵画的な表現の出来映えを重んじるところが強いのだが、 図柄が美しいことと、それを着れば美しく装えることは同じではない。図柄は身体の立体性によ り添い、溶け合って、所作、動作に美しく関わりあうべきではないのか、このことが私の友禅の出 発点であり立脚点でもある。二次元で考え制作するのだが、三次元、四次元と頭の中で往来させ ながら原案を作り出します。
この原案を考える過程は、実際に制作する「技」の過程と不二一体のもので、「白上げ」、「堰出 し」、「糸目線上げ」、「蒔糊」、「地抜」それぞれの「技」は独自の表現力を持った友禅技法 で、単独でも組み合わせでもきるが、わざ自慢の場になってはいけない、意匠のためのわざであることが 肝要であろう。
こうして生み出される友禅の着物の[美]はそこで完結しない。ひとりの女性に着られ、つまりひ とりの人格とかかわり、それに「馴染」み、「別のもの」になると言うか、それを作った作者の ものから、もうひとりの表現者のものに変身する。最も幸せな状況でそのきものが役目を果たせ たとすれば、それは、その女性に逢った人達から、「とても美しい人とたのしい時を過ごした」 との印象が残るだけで、色や意匠については記憶に残らないものなのです。
さらにその役目を果たした「きもの」が、美術展の陳列ケースの中で新しい役目を持ったとすれ ば、色彩と形態が作りだす造形の世界として、あるいはそれにまつわる人物や物語を空想させて 人の心を引きつけることができる。造形物としてこれほどに「たくましい」あるいは「したたか な」ものが他にあるでしょうか。
森口邦彦氏